どうすれば打開できるのか考えてみる。
こんな妄想レベルのエントリーをTBしてしまってすいませんでした。と一つ誤っておきます。
日ごろから(の妄想から)、幼いころの経験から、学校って確かに友達とは仲良くなれていいのかもしれないけど、知識を得るところとしては一体どうなんだろうか、と考えてみて思い立ったので文章にまとめておく。これが今の僕では精一杯の思考の結果だと思うからともかくまとめておいた。
クラスの一番後ろでは、サッカーボールを使って教室の端と端でリフティングパスをやっている。一番前の席では、携帯ゲーム機で対戦ゲームをやっている。クラスの真ん中では、賭け花札をやっている。
慣性のある生活 - 一年目の教師が経験した教育現場
建前
たとえば、教える教科からウンチクを出してやると良い。サッカーならどこが起源でどのように発展したのか。ゲームもおなじ、花札も同じ。
そこから英語につなげる、それだけで印象はずいぶん違うのかもしれない。
ウンチクはともかく、生徒の興味を引くものを出してやれっていう方法。彼らが遊ぶ理由はこの授業に興味がない。非常に受動的だから興味を刺激してやる方法をとればいいという話。
本音
この方法は多分、知識がある(話をはずませれるだけの量)、頭のキレて洞察力が鋭く(鋭く突っ込める)、どんな状態でも冷静に環境を見舞わせる、つまりこの状況に慣れた人間でないと無理だと思う。*1
(一つの解決策からの逆転的な結論からだけど)つまり並大抵の人間では教師は務まらない。僕にはとても無理。
そうして、教える側が強固な存在でないと、知識を教える(インプットさせる)という点からの学校は機能しない。数値的にも学力が下がる。形が崩れてしまう。
だからこそムチをたたいて教えるか、こちらが折れて取引をするか。管理教員や親に形だけのものを見せるだけの場なのかもしれない。
そういうことで、教師も過酷な職業だと感じる。(あえて〜も、とする。過酷にもいろいろあるだろうし)
1年生き抜いた著作者に感動。
私的まとめ
知識、リソースを伝える意味での学校なのか、生徒を大人として成長させるために隔離するための学校なのか。どちらでもあるのか。
どの道何を伝えるべきなのかはっきりしないといけないのかもしれない。 ただ生徒が自由に環境から吸収すると自由主義で、放置していてはいけない。
また、その場の脆弱性*2の対処じゃなくて、設計段階*3を見直す必要があるのかもしれない。
まぁそれでも時代が進めばどんどんその設計も変えないといけないから追いつかなくて、隙間の犠牲者が現れて、その隙間の犠牲者がかなり悪いほうへ転がって、次の世代につながっていくんだろう。
・・・性悪説で考えるとそうなる気がするんだけど、それじゃぁ「結局どこから積みなおさなければいけないんだよ!」*4とわからないから、みんな混乱してるんだよな。orz
先ほど、生徒は受動的と書いた。学校は先生の言葉を聴いて、黒板をノートにまとめる。それだけでよいという単純なプロセスとしてまとまってしまったのかもしれない。
親もそう感じる方が多いのかもしれない。学校は大切だというかもしれないけど、教わるのが大切という人は多く見たことがない(とニュースとかみていて感じるだけなのかもしれないけど)
そうして教師も、ただ単に記録の一部に過ぎないと思ってしまうと、どのように教えてやろうかという教育思想もなかったものになってしまう。
そうして、強く思う教師が一人減り、また一人減り。何も対策をしなければ緩やかに崩壊していくのだろう。 どこで補強すべきなのか、気が付かないほど緩やかに。
そんな気がする。多分そんな気がするだけだと願うけど。