人に指図されて生きることの意味はあるのだろうか。

親父やお袋にがみがみ言われ続けてきて、今まで生きてきた。今考えると、自分は自分で決定する事がほとんど無い気がする。
もちろん、気がつかないところで決めているのだろうけど、今の生活は自分で決めたのかというと、本当はそう思えないのだ。実感がないのだ。
親は何かあるとどうだこうだという。自分が何か決めても一言入れてくる。そんなことはしょっちゅう。
勉強していなければ勉強しろを毎日いう、そう思ったら何か困っていたらすぐに手を差し伸べる。
言うことを聞かないので不満をいう。それしか出来ない。それしかしない。それでどれだけ心が傷ついたことか。
何も自分の意思が通らない、伝わらない、これでは自分というものはいったい何者なのかもわからなくなるのも当然だったのかもしれない。


何かをやってくれといわれてそれをやる。事務所のPCが調子悪いだとか、なら直してあげると自分はいう。
好きだからやってるわけではない。単純にかわいそうだからやっているだけなのではないか?
向こう側は、そうやって人の助けになることを教える。彼らは良いことを教えているつもりでいるのだろう。
もちろん、それは良いことだ。でもそれしかやらせないことは、何かを命令してやらせるばかりでは、何も自立できない人を育ててるに過ぎないこと。
これには、自分も含め親はなかなか気がつけないだろう。自分の言うことをまじめに聞いてくれれば誰でもすがすがしい思いになる。正しいと思ってしまう。そこで満足してしまうから。


そして、それをやらないと何か壊してしまう。そんな責任感からも動いていたのだと思う。
表面上では何事もない家族であったように思う。それなりに燻ることもしばしばあったけど、なんとかなってきた。
それももう長くは続かないだろう。少なくとも自分はそうでない方向に進まないといけないと自覚している。そんなものを守っていても自分のためになるだろうかと考えてみる。


自分が動くことで壊れてしまうものがある、のはしょうがないとあきらめることも大事なのかな。
どうしても文章にしておきたかったので残しておく。